「太陽と鉄」

太陽と鉄 (中公文庫)

太陽と鉄 (中公文庫)

8月18日読了。2013年60冊目。夏休み9冊目。

三島のエッセイは最高に面白いので一読を薦めたい。「太陽と鉄」も「不道徳教育講座」「若きサムライのために」と並んで傑作である。

この「太陽と鉄」は、三島由紀夫が1970年に自決した謎が、部分的に、客体的に紐解ける書であったようだ。少なくとも僕はそのように感じた。三島由紀夫の死には肉体と浪漫主義的悲壮と深く関わっている。

三島由紀夫が自身の存在手続を肉体に求めたのは、僕が三島由紀夫を敬愛する理由の一つであり、僕自身も肉体をも教養として取り込もうと思っている人間である。文弱の徒であるか、筋肉バカであるかの二元論で人間を分類することほどつまらないことはないし、教養人であろうとするためには同時に自身の肉体に関しても知らなければいけないと僕は常日頃から考えているので、三島由紀夫は僕のロールモデルにふさわしい男であるのだ。

ちなみに本書は「私の遍歴時代」との二部構造になっているが、こちらは読みはしたものの興味をもてなかった。

鉄が私の精神と肉体との照応を如実に教えた。すなわち柔弱な情緒は柔弱な筋肉と照応しており、感傷は弛緩した胃と、感受性は過敏な白い皮膚と、それぞれ照応していると考えられたから、隆々たる筋肉は果敢な闘志と、張り切った胃は冷静な知的判断と、強靭な皮膚は剛毅な気性と照応している筈であった。(P31)

私にとっては肉体よりも先に言葉が来たのであるから、果敢、冷静、剛毅などの、言語が呼び起こす諸徳性の表象は、どうしても肉体的表象として現れねばならず、そのためには自分の上に、一つの教養形成として、そのような肉体的特性を付与すればよかったのである。(P32)

厳格に古典的な肉体を要求し、ふしぎな運命観から、私の死への浪漫的衝動が実現の機会を持たなかったのは、実に簡単な理由、つまり肉体的条件が不備のためだったと信じていた。浪漫主義的な悲壮な死のためには、強い彫刻的な筋肉が必須のものであり、もし柔弱な贅肉が死に直面するならば、滑稽なそぐわなさがあるばかりに思われた。十八歳のとき、私は夭折にあこがれながら、自分が夭折にふさわしくないことを感じていた。なぜなら私はドラマティックな死にふさわしい筋肉を欠いていたからである。(P32-33)

シニシズムは必ず、薄弱な筋肉か過剰な脂肪に関係があり、英雄主義と強大なニヒリズムは、鍛えられた筋肉と関係があるのだ。なぜなら英雄主義とは、畢竟するに、肉体の原理であり、又、肉体の強壮と死の破壊とのコントラストに帰するからであった。(P47)

私は自分の存在の条件を一切認めず、別の存在の手続を自分に課したのだった。そもそも、私の存在を保障している言葉というものが、私の存在の条件を規制している以上、「別の存在の手続」とは、言葉の喚起し放射する影像の側へ進んで身を投げ出すことであり、言葉によって創る者から、言葉によって創られる者へ移行することであり、巧妙繊細な手続によって、一瞬の存在の影像を確保することに他ならなかった。短い軍隊生活の、孤独の選ばれた一瞬にだけ、私が存在しえたのは、まことに理に叶っていた。私の幸福感の根拠は、明らかに、かつての腐朽した遠い言葉の投げかけた影が結んだ像に、一瞬たりとも、自分が化身したところにあった。しかしもはやそれを保障するものは言葉ではない。言葉による存在の保障を拒絶したところに生まれたそのような存在は、別のもので保障されなければならぬ。それこそは筋肉だったのである。(P71)