2016年1月25日覚書

今年の行動指針の一つとして「承認欲求とプライドを捨てる」というものがある。俺は自分の文章力に自信がないので、文章を書くごとその不出来に落胆する。しかし自己評価や他人の評価による落胆よりも思索による知的トレーニングの方が重要だと考え、2016年に入り自分の考えたことをなるべく文章に落とし込むことを意識していて頻繁にPCにメモをしている。その人がその人たらしめているのは(尾崎豊風に言えば僕が僕であるためには)、内的な思考と感情の発露に限ると思うので、アウトプットは可能な限り続けたい。以下も沢山あるうちの思考の断片である。

ちなみに俺の文章力の欠如は、日本語におけるコロケーションの知識不足が最も大きな原因なのではないかとずっと思っている。最小単位としての語彙力はないではないが、ある語彙と相性の良い名詞、動詞、形容詞を引き出す能力があまりないのだ。


「男の顔は人生の履歴書」という言葉があり、それは概ね正しいと思っている。確かに、人生の履歴書が空白に等しい俺に関しては、電車の窓に映った自分の顔、温泉の鏡で見た自分の顔、どれもが弛緩した覇気のない顔をしていることが多く、普段フニャフニャの阿保面を携帯しながら街を歩いていることが自分でも想像できる。顔だけでなく肉体や動作・振る舞いもその人格を瞬時に映し出すものと、どんなにそう思わぬよう気を付けても人は直感的にそう思ってしまうものだ。

危機というものが男性に与えられた一つの観念的役割であるならば、男の生活、男の肉体は、それに向って絶えず振りしぼられた弓のように緊張していなければならない。私は町に、緊張を欠いた目をあまりに多く見過ぎるような気がする。(「若きサムライのために」p29、三島由紀夫)

もし自身が引き締まった生活を志向している中で「優しそう」「真面目そう」というような言葉を受け取ったらそれは反省すべきことなのかもしれない。

酩酊した状態に格好悪さを覚えて以来すっかり酒を飲まなくなった。あの弛緩しただらしのない顔を他人に晒している、もしくは晒すべき他人が周りにいないとしてもあの顔を所有していること自体に恥ずかしさを感じる。俺はつい意識が朦朧とするまで酒を飲み他人に迷惑をかけることも多々あるのだが、それは最近の断酒とはあまり関係がない。同じ辛い顔をしていても、それが酔っ払いなのかトレーニングや柔道での疲労なのかで爽快感がまるで違う。

夜間や昼間に放送されている情報番組や報道などでテレビというメディアは、事故の被害者にしても有名人の離婚騒動にしても政治家や経営者の謝罪にしても近隣住民の迷惑行為においても、それを通じて何を伝えるわけでもなく単にそれらを見世物として視聴者と共に嗤っている点で、よく彼らが批判する匿名掲示板と所詮は同じ穴の貉である。何も情報番組だけに限らずバラエティ番組でもそうであるし、そういう俗っぽさから脱皮しない限りテレビの復権は有り得ないと思う。

三島由紀夫の肉体論に触れたいとふと思い、「太陽と鉄」と「若きサムライのために」を約3年半ぶりに再読している。久しぶりに読み返す2冊の本には丹念に赤ペンで傍線がひかれていて、大学1年生当時何に感銘を受けたか一目で分かるようになっている。三島由紀夫のエッセイは抽象的思考において痒いところに手が届くセンテンスが多いので読んでいて非常に面白い。