桜の季節

留年したという記事がエープリルフールである4月1日付のもので嘘を匂わせるものであった。それが嘘のまま終われば良かったものの、事実4月5日から新学期が始まり大学生活6年目ということで大学キャンパスを彷徨する老獪と化している。害がないから老害ではないにしても。いや害がないにしても、糞にも成り得ない人畜無害である。今年度も広大なキャンパスの端を無色透明で歩いている。

俺は昔から春が嫌いである。春になると花が咲き虫が飛び出し人々は太鼓を叩き笛を吹くようになり景色が一気に賑やかになる。その賑やかさと華やかさが俺と全く相容れないのだ。春や桜と俺は何一つ照応していない。鮮やかな花びらを大々的に誇示する桜が俺の敵であることは間違いない。春は目に映る風景がとても五月蠅い。

自分で自分を養えるいっぱしの大人になった頃に、スポーツタイプ若しくはセダンタイプの愛機と共に日本陸地全域を駆け抜ける夢を常に見ている。OASIS風に言うところの「I'll take my car and I drive real far」(『Rock 'N' Roll Star』)である。閑散として静まり返った秋若しくは冬の透徹した夜道をOASIS『(It's Good) To Be Free』『Underneath The Sky』『Columbia』や長渕剛『カラス』『蝉』を流しながら人馬一体となり自動車で駆け抜ける。この春と真向から対立する極めて私的な悦楽を獲得できる季節が待ち遠しく思われる。

先日、昨年あたりまでお世話になった人と約1年ぶりに偶然会った。当たり前だがあまり変わっていなかった。その御嬢姉妹二人とも約1年ぶりに会ったわけだが、新小4と新小6だという。邂逅早々俺に腹パン正拳突きやローキックを十数発程度食らわせる(腹パンの場合俺は彫刻の如く鍛え抜かれた腹直筋で応酬する)という凶暴性は変わっていないが、それ以外の体格・振る舞い等々は全て変わっている。元々小学生か小学生に満たないくらいの時から知っているため、その直で見てきた成長を古代日本人風に言えば「目にさやかに見ゆれば、おどろかれぬる」というものである。

知り合いの中学生(もう高校生)が柔道超強豪校に入学した。既に顔つきに変化が見られ、戦闘民族の相貌をしている。彼に来たる地獄の日々を案ずるが、最高の環境で自ら追い求める理想に近づけるというのは羨ましい。東大で昼夜研究することも東海大相模で野球に打ち込むことも芸術大学で創作活動に励むことも本質的に通底しており、社会への貢献度は多少違えど、個人的なレベルにおいて貴賤や優劣はない。

対して俺は容貌・生活習慣・思想・行動原理など諸々に関してほとんど変化がない。この4年間で幾らか変化したと言えど彼や彼女らほどではない。そして俺は留年により自己変革の機会を逸した。

年月に対する成長の度合いは年々失速していくため、齢を重ねるごとに自己変革を遂げるための労力がより多く求められる。とても虚しいことであるがこれはそういうものとして受け入れざるを得ない。三島由紀夫は『英霊の聲』に収録された『二・二六事件と私』で以下にように語っている。

生きていればいるほど悪くなるのであり、人生はつまり真逆様の頽落である。(三島由紀夫二・二六事件と私』)

自己を変革することは生活習慣を変えることと同等であり、生活習慣を変えることは環境を変えることと同等であるという信念を持っている。それは1月に行った一人沖縄遠征で検証済だ。以来、生活習慣を変えるための策を既に二つ実行した。更なる荒療治により全く違う人間になることが早急に求められている。