「完全自殺マニュアル」

完全自殺マニュアル

完全自殺マニュアル

4月25日読了。2013年47冊目。

自殺の方法論をケーススタディを交えて詳し目にレクチャーする本だが、その本編よりも筆者の考えに僕は注目したい。

生きてたって、どうせ何も変わらない。エスパーじゃなくても、だいたいこれからどの程度のことが、世の中や自分の身に起こるのかもわかってくる。「将来、将来!」なんていくら力説してもムダだ。あなたの人生はたぶん、地元の小・中学校に行って、塾に通いつつ受験勉強をしてそれなりの高校や大学に入って、4年間ブラブラ遊んだあとどこかの会社に入社して、男なら20代後半で結婚して翌年に子どもをつくって、何回か異動や昇進をしてせいぜい部長クラスまで出世して、60歳で定年退職して、その後10年か20年趣味を生かした生活を送って、死ぬ。どうせこの程度のものだ。しかも絶望的なことに、これがもっとも安心できる理想的な人生なんだ。
 こういう状況のなかで、もうただ生きていることに大した意味なんてない。もしかしたら生きてるんじゃなくて、ブロイラーみたいに“生かされている”だけなのかもしれない。だから適当なところで人生を切り上げてしまうことは、「非常に悲しい」とか「二度と起こしてはならない」とか「波及効果が心配」とかいう類の問題じゃない。自殺はとてもポジティブな行為だ。(はじめにP7)

「強く生きろ」なんてことが平然と言われてる世の中は、閉塞してて息苦しい。息苦しくて生き苦しい。だからこういう本を流通させて、「イザとなったら死んじゃえばいい」っていう選択肢を作って、閉塞してどん詰まりの世の中に風穴を開けて風通しを良くして、ちょっとは生きやすくしよう、ってのが本当の狙いだ。
 別に、「みんな自殺しろ!」なんてつまらないことを言ってるわけじゃない。生きたけりゃ勝手に生きればいいし、死にたければ勝手に死ねばいい。(おわりにP195)

この考えはすごくわかる。

高校生の頃、朝早くおきて満員電車に乗って全く面白みのない授業を受けて人間関係をほぼ絶ちたいと思って人を避けてほとんど言葉も発さず下校時は車窓から観想に耽って帰宅して帰宅したらボーって家で過ごしたりバイトしたりして翌日に備える、という毎日が本当に嫌で本当に学校に行きたくなかった。この感情がピークに達した高2の4月のある日、唐突に誰にも告げず学校から逃走したことがある。これがものすごい快感で、その後家に電話が入ったり翌日担任に呼び出されて面談したり大変だったが、「面倒くさくなったら逃走する」という選択肢を持つことで何か閉塞感を打破できた感じがした。以後、定期的に仮病という合法的措置で何度も学校を脱走して何度も情緒の安定を回復した、という経験を持つ僕にとって筆者の言わんとするところは十全に理解できた感じがした。

或る現状に対する「抜け道」という選択肢はとても重要であると思う。イザとなったら何もかも捨てて抜け出してやろうという選択肢を自身の意志で選定できることで、楽になれることは経験的に理解できるはずだ。

「自殺は絶対してはいけない」という言説は、社会的・規範的・絶対的なもので、個人的であらゆる社会的規範から逃れた「自殺」それ自身には全く関係のないのだと僕は思う。無論、僕も社会的に重要な立場にある場合、公に向かっては「自殺はいけない」と発信するしかないが。妄想に近いかもしれないが、僕が哲学解説書で毎回ハイデガーにシンパシーを感じるのも、僕のこの考えが「死への先駆的決意」などに通底しているからかもしれない。

とにかく「自殺は何が何でもダメ」と説教して下らない日常生活にエンクロージャーするより、死ぬという選択肢を与えて、大江健三郎風に言えば「ここより他の場所」にも目を向けさせることのほうが僕には遥かに重要に思える。