「実存からの冒険」

実存からの冒険 (ちくま学芸文庫)

実存からの冒険 (ちくま学芸文庫)

4月23日読了。2013年46冊目。
神本。授業中に退屈だなと思って数ページ見るつもりが面白すぎて授業が終わるまで読んでしまった点は悪影響で正直迷惑だった。

元々安部公房信者で彼がハイデガーサルトルなどに傾倒し実存主義に影響を受けていたこと、大江健三郎(初期)も好きで彼もサルトルに傾倒していて実存主義者であること、高校生の頃読んだ倫理の教科書でハイデガーに魅力を感じ今も継続していること、カミュ(彼自身は実存主義者を否定しているが)の「異邦人」を読んで衝撃を受けたこと等々から、実存主義と僕は相性が良いようで手にとった本。また読後、僕と実存主義はやはり強固な関係にあることを悟った。著者である西氏の哲学者解説自体は非常に明快で読書に没入できたが、終局的に通俗的な幸福観を志向している西氏自身の思想に共感できなかったことは残念に思う。

本書ではニーチェハイデガーが主に取り上げられていて、やはりいつも通りハイデガーには感心したのだが、意外にニーチェに衝撃を受けた。今まで様々な哲学解説書を読んできて特にニーチェに魅了されたことはなかったのだが。

とりあえず書きたいことがありすぎて困る。2人の思想を要約するのは面倒なので雑文を連ねる。

まずはマルクス主義実存主義

マルクス主義は、いっさいの問題をすべて社会の構造の問題に還元してしまうから、自分の抱えている苦しさは社会変革という共通目的に吸収されてしまう。(P16)

ニーチェ
ルサンチマンによる価値の転倒」とキリスト教的道徳の「力への意志」の阻害、真理の捏造、畜群本能、は読んでいて胸があつくなった。「超訳 ニーチェの言葉」なる本が発売されていて読了後に立ち読みしてみたが、自身の哲学があのような万人受けする自己啓発に歪曲され量産型人間(畜群)が生産されていることを彼はどう思うのだろうか。

キリスト教的道徳が体現している<力への意志>は、?ただ保存のみをめざし、?ほんらいの<力への意志>を阻害し、?結局は生を忌み嫌って無の世界に憧れる、<無への意志>として弾劾されるわけだ。(P71)

ただ西氏はニーチェの思想は貴族騎士(能動的な力)/僧侶(ルサンチマンによる力)の二項対立に弱点があると批判している。

ハイデガー
自己を規定して世界を認識するのではなく、道具連関の総体というあらゆる「存在可能性」に現存在が投げ込まれている、という論は非常に魅力がある。

存在可能性が自由に湧き出して、それに基づいて道具連関及び用在性が成立してくる、ということではない。存在可能性とそれに基づいた道具連関とは、いわば同時に与えられているのだ。(P147)

気分という現象を、主観的状態であってそれが客体としての世界やモノにかぶさっている、と考えないことが肝心なのだ。そうではなく、先行しつつ全体をある色合いで染め上げていて、そこからモノや他人や自分が与えられてくるような、そういう「全体としての開示性」が気分なのである。ハイデガーは「情状性は<世界=内=存在>を全体として開示する」といっている。(P160-161)

人間はそのつど特定の存在可能性とそれに相関した道具連関、つまり特定の世界のなかを生きている。それはいわば所与性なのであって、自在に交換することのできないものなのだ。つまり、被投性とは、「人間はそのつど特定の存在可能性のもとにあり、それを自在に交換することはできない」ということを意味している。(P164-165)

私たちが日常において「投げ込まれている」のは、私たちの環境世界であり、そこで与えられている存在可能性である。そのなかを生きる日常的な<世界=内=存在>を、ハイデガーは「頽落」とか「非本来性」と呼ぶ。(P166)

ハイデガーが「死」の観念を問題とするのは、「自分がいつ死ぬともわからないという事実」が腹に据えられたとき、いままで自分が無自覚に受け継いできたさまざまな存在可能性が自分のものとして検証される機会を与えられるからなのだ。(P177-178)

「うああ哲学事典」という漫画を読んだ時、死への先駆的決意性の章がよくわからなかったがこれで少しスッキリした。要は、存在可能性の喪失である死を先駆的に決意することによってDas Manの状態から存在可能性が自分固有に拓けて本来性を取り戻す、みたいな感じ。

まぁ<世界=内=存在>はいまだによく分からん。