「大衆教育社会のゆくえ」

・日本における教育問題の特殊性

高度経済成長期以前「貧困と教育」問題の議論は盛況していたが、日本全体に豊かさが浸透して以来そうした議論は衰えた。それは国内における経済的な格差が縮小したことで教育の機会がより均質化した、という雰囲気から由来している。しかし教育の平等はそうした経済的な側面だけに割り切れるものではない。家庭の所得のみならず、「階層」という要因も絡んでくる。「階層」とは所得の他に、行動様式・言語コードといった文化的側面も含意する。

高度経済成長期における産業構造の変化により高校進学率が上昇した(教育の構造も変化した)が、それにより学歴取得後の不平等に問題の重点が移ることで生まれに依る「階層」が学歴取得において有利不利の発生に結びつく議論が衰退した。フランスやイギリスでは教育の選抜の基準自体が階層文化に明確に結びついているため、不平等が可視的になり議論に及びやすい。一方「努力すれば誰でもできる」中立的な選抜制度を保っていたとされる日本においては、背後に潜む階層的な問題が隠蔽されていた。

また能力によって教育の方法を変える(例えばクラス分け、職業科等の設置)という能力主義的差別は生徒の差別感を助長すると批判されることが多かった。よって学校で測られる学力的な差異は生まれながらの素質ではなく「努力すれば改善可能」であるものとされたことと相まって、生徒が差別を感じないために評価を均質化することが平等と考えられ、こうして大衆的なメリトクラシー(業績主義)が浸透して、形式的に公正な選抜を行う基礎ができた。

たとえ結果的には特定の階層出身者に有利に結果になったとしても、手続き上の公平さが、結果の不平等を容認する基盤をつくりだす。そうした意味において、戦後徹底した教育における平等主義は、競争以前に生じる社会的不平等を不問に付す役割を演じたといえる。(P193)

・大衆教育社会の形成

日本では生まれに関係のない中立的な学校文化が形成された。そして学校経験を通じて形成された共通の文化的な基盤が大衆規模で広がっていく。

・教育の神話的な側面

バルトを引けば、「神話はものごとに、説明の明晰さではなく確認の明晰さを与える」…省略…このようにみると、学歴社会論も、能力主義教育批判も、現代の神話である。「学歴社会だから、…」「成績で差別すると…」「偏差値教育だから…」。その妥当性の根拠を示すことなしに、こうした「説明」を人びとは、受け入れ、自体の確認をすます。…省略…こうして私たちの教育へのまなざしは、教育という世界の内側に釘づけとなり、不平等をはじめとする社会の構造問題との接点を失った教育論議が繰り返されることになる。(P216-P217)


かなり適当にまとめたので、もう一回書きなおす。

「神話はものごとに、説明の明晰さではなく確認の明晰さを与える」。バルトかっけぇ。