「一般意志2.0」

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

2月21日読了。2013年17冊目。
発売当初から気になってはいたが購入はせずすっかり忘れていた。あずまんの著作は慶應時代に読んだ「動物化するポストモダン」ぶり。ただサブカル論っぽくて「お、おう」ってなった記憶がある。

ルソーの「社会契約論」を現代の技術や制度さらには思想と擦り合わせることで、ラジカルで新しい政治の形を模索していこうみたいなエッセイ。学術書ではないことに注意。最終的に抽象論に収束した感が否めないが、「エリートか大衆か」みたいな議論を弁証法的に解消していく感じがすごい興味深かった。普通に面白かった。ていうかすごい読みやすいから誰でも読めると思う。


ルソーの「社会契約論」ではコミュニケーションを排除した一般意志に基づく統治の構造が模索された。一般意志は人間の秩序ではなく、それはどちらかというと「モノ」寄りである。つまり、人間同士が熟議を尽くして形作る政治ではなく、一般意志というあらかじめ規定された「モノ」による政治。これはアーレントハーバーマスの主張とは対照的である。

ルソーは、「一般意志はつねに正しく、つねに公共の利益に向かう」と断言している。ルソーがこのように言うのは、なにも大衆の良心を過剰に信じているからではない。彼の理論においては、そもそも一般意志こそが善や公共性の基準を作るはずなので、それが誤ることは定義上ありえない、そんな論理になっているのである。(P41-42)

ルソーによれば、一般意志も全体意思(みんなの意志)も、複数の個人の意志、彼の用語で言う「特殊意志」の集合であることにはかわらない。しかし、一般意志(一般化された意志)が決して誤らないのに対して、全体意志(みんなの意志)はしばしば誤ることがある-そう彼は主張するのである。(P42)

では現代における一般意志はどのように可能なのか?ルソーの生きた時代において一般意志は抽象的で不可視なものに留まった。しかし情報技術が発展した現代では、一般意志は可視的なものになり、大衆の無意識(な欲望)を反映することができるようになった。それはグーグルやアマゾンを例にとることができる。これは無数のデータベースに基づく「総記録社会」と呼称することにする。

「総記録社会」において大衆の無意識は可視的になった。ルソーの「一般意志」がフロイトの「無意識」に通底していることを考慮すると、この無数のデータベースが新しい「一般意志」を表していることになる。このような一般意志がルソーと区別された「一般意志2.0」である。

この大衆の無意識の欲望「一般意志2.0」を積極的に掬いあげてそれを政策に反映していく、これが社会の複雑化により耐用年数に限界がきたであろう熟議民主主義(つまりコミュニケーション重視の民主主義)にとってかわる(というよりも熟議民主主義と接合したかな?)、新しい政治の形になるのではないか。

筆者はここからさき、そのデータの蓄積こそを現代社会の「一般意志」だと捉えてみたいと思う。(P83)

一般意志の概念全体を「一般意志」と呼び、ルソーに忠実なそれを「一般意志1.0」と、そして彼のテクストを総記録社会の現実に照らして捉え返し、それをアップデートして得られた概念を、「一般意志2.0」と呼んで区別していく。(P89)

わたしたちは、社会を運営するうえで、これからはまず可視化された大衆の欲望を条件として受け入れる必要があるのだ。(P148)

これからの統治は、選挙を行い、議院を選出し、何週間もかけて政策審議を繰り返すなどという厄介な手続きをすべて打ち棄てて、市民の行動の履歴を徹底的に集め、その分析結果にしたがって行えばよいということにならないか。(P170)