日本人としての意識

柔道の試合会場で日本国国歌・君が代が流れる時に俺は、起立(会場内全員起立するようアナウンスされる)をして、日本国旗の方に体を向け背筋を伸ばし、歌詞をしっかりと聴く(≠聞く)ようにしている。その都度、この国歌と国旗がこの会場内にいる人々に対して持つ意味に関して考えさせられる。

日本の歴史は他国とは異なり極めてぼんやりとした中で始まりくっきりとした輪郭の中で進んだ。初代天皇が即位し、中国(隋・唐)の文化を吸収しながら王朝国家としての体制が形作られていった。やがて武家政権が成立、南北朝の動乱を経て、江戸時代は鎖国政策と封建制の中で大きな国内外の戦いもなくその経済や文化を発達させた。明治政府成立後、激動の帝国主義の波に飲み込まれぬように西欧に追いつけ追い越せと、政治家・知識人から一市民までが連帯した。世界恐慌ブロック経済国家社会主義の台頭といった国際環境と昭和恐慌や軍部の台頭という国内情勢から第二次世界大戦に突入し、天皇の国体のために英霊達は命を擲った。そして戦後、アメリカの占領を経て明治以来の和魂洋才・和洋折衷というべき精神を保持しながら軍事・戦争と無縁な"平和な"一大経済大国へ成長し、現代に繋がれている。現代日本人はそのような連綿として続いた日本の歴史の上に立っている、謙虚な言い方に正せば、その末端に連なっている。あの会場にいた人々に対してあの国旗と国歌は大和民族の紐帯として欠くべからず象徴なのである。そうした歴史を切り捨てて世界・欧米と安易に同化することは、日本という日本人の母体を捨てることと同等である。そうした歴史と今を切り離して世界・欧米と安易に同化しようとする日本人が非国民に感じられてしまうのは無理もない。その必要もないのに英語を話し出したり、欧米人のように身振り手振りで抑揚をつけながら日本語を話したり、すぐに欧米を持ちだし日本を批判したがる者に対してイラついてしまうのは無理もない(ちなみに某学生による緊急アクションのHPを見ると日本人として自然な要素が何一つないので頭で考えるより先にイラついてしまう)。日本人的な在り方と世界市民的な在り方を生活の中で棲み分けていく必要があるのだ。

最近(ここ3年くらい)、日本全体において外国人特に欧米人から称賛されることに必死な傾向があるように見受けられる。日本の景観、観光地、漫画、アニメ、音楽、芸術、スポーツ競技、これらが他国より卓越しているか、称賛に値するかなどはどうでもよい。別に世界に対して凄くなくてもよいのだ。千何百年前も同じ大和民族が住んでいた土地に住み、日本人的な肉体を持ち、日本語を聞き話し、日本人的な振る舞いをするという事実がある以上、日本人としての意識は最早切り離して生きていけるものではない。右翼や左翼といった思想以前の問題である。まぁそういう歴史や民族意識を空想と批判する人もいるが、少なくとも今の俺は全然そんなこと思わない。

三島由紀夫と東大全共闘の東大駒場900番教室での激論はYOUTUBEでも見れるし本でも読めるので有名だと思うが、全共闘C・芥正彦とのやり取りの中で三島由紀夫はこう発言している。

「僕はね日本人であって日本人として生まれ日本人として死んでそれでいいんだ。その限界を全然抜けたいと思わない、僕自身。あんたから見れば可哀想に思うだろう」
「ぼくはだね国籍を持って日本人であることを自分では抜けられない(除けられない?)。これは僕は自分の宿命であると信じてるわけだ」
「そういうこと(=日本の歴史の中にいること)に喜びを感じるの…幻想の中で…」
(YouTube、『美と共同体と東大闘争』P93-P94から引用)