深夜覚書

  • 話すという行為は思考が未完であるにも関わらず言葉として完成させなければならない点で昔から苦手意識があり、就職活動の面接を通じて痛感した。ここ1年、人が喋る時にその話言葉の文章構成に着目することが多々あるが、凡そ僕の話し言葉より綺麗で流暢である。恐らく彼らと僕の差は、話し言葉における語彙力の差とイコールであると今のところは分析している。
  • 甲子園に対する国民の熱狂は異常であると毎年思う。人々は高校球児が頑張っている姿に感動を覚えるという。血のにじむような努力を重ね闘っている人は沢山いるが、野球というゲームは、チームプレー(守備や走塁)と個人プレー(バッティング)が混在している点で「頑張っているように見える度」にシナジーを生み、より人々を感動させる作用があるのだろう。
  • 2015年は人と交流することが多かった。一人になる時間は僕にとって不可欠なものであり大切にしてきたが、そうした時間を喪失することでそれが僕にとって必要不可欠であるものと確信した。大学生活最後の夏は徹底して孤独になろうと考えている(卒業できるとは言っていない)。
  • はてなダイアリーにおけるHNはein-Mannであるが、Das-Mannにすればよかったと2年程前から後悔している。次のブログではDas-MannというHNを使おうと誓っている(註:誓うという動詞は対象をとる必要がないらしい)。
  • ちなみにeinには英語の「a」程度の理解しかなく、「一介の」「つまらない」「とるに足らない」という意味をこめて使用した。Das Man(Das Mannではない)はハイデガーの哲学用語なので敷居は高いが、この言葉の意味と背景が個人的に好きなので使用してみたい。
  • 「僕」という一人称に違和感を感じる。以上の文は自分の色を全面的に出しているので一人称を全て「俺」に変えてしまった方が良い。しかし「俺」で統一すると全て主張の強い文になるし、「私」は年齢や身分の割に老成している気がする。「僕」だと心身共に弱そう。「ウチ」は論外で、「ワイ」はねらーっぽい。やはり「「I」「Ich」「Yo」「Je」は便利だ。