「する」と「なる」

大学の西洋思想史の授業のまとめ。丸山眞男の日本の戦時下での思想分析を紹介されたが大学の授業にしては結構面白かった。「日本の思想」の「『である』ことと『する』こと」は高校生の時に教科書で読んだが、教科書の中で最も面白かった記憶がある。

戦時中の日独比較 ドイツ 日本
指導者層 ならず者心性 政治家、官僚、ならず者(軍)(相互が責任を転嫁)
民衆・支持者層 権威主義的心性 「なる」心性


ドイツの指導者は、国際法違反を意識しながらも、自らの責任で再軍備を進めてドイツを軍国主義化した。一方日本の指導者層ではそれぞれの立場が、その地位に逃避することで責任の所在を他の層に転嫁しあった(=存在拘束性)。また民衆・支持者層は戦争や軍国主義化を自然発生的なものとみなし(=「なる」)、軍部の暴走を抑えることができなかった。

「する」思想のドイツではナチズムの反省で今後の暴走を抑制「する」ことが予想されるが、「なる」思想をもち政治的な現象を自然発生的に捉える日本では、再び第二次世界大戦のように全体主義化・軍国主義化する恐れがある。丸山眞男氏は日本人を「なる」思想から「する」思想へ誘うことを図った。

先生は「なる」と表現していたが、「である」じゃね?って思った。果たして意図があって「なる」という表現を使用したのか、純粋に覚え間違いなのか。