雑感の雑感/文化資本

高校2年生の頃はまだネットにも浸かってなく、かと言ってリアルの世界で人と関わることもなく、無味乾燥で閉塞感に満ちた生活を送っていたため、何かと考える時間が多く、授業中や通学途中は何かしら考えていた。あまり覚えてはいないが、当時は年齢も年齢だったので物事に対して異常に懐疑的だった。善悪、美醜、好悪など広範囲に及ぶ価値判断を全てリセットしていた。恐らく今までの22年間で一番懐疑的だったので、それゆえに斬新な発想も多かったような気がする。ノートや何かにメモを残していない点はかなり後悔している。残そうと考えたこともあったがそれすら嫌だった。

ブログは勉強のモチベーションを上げる理由で仮面浪人の時分に開設した。仮面浪人の頃は毎日勉強記録をつけていて何を考えていたのかがある程度文章として残っている。たまに見返すのだがこれが結構楽しいのでブログをやっといて、そして消さずに残しておいていて良かったと思っている。

高校2年生の後悔や、仮面浪人時代の経験もあって、将来の自分がブログを見返したり、自分の考えを整理する目的で、あまり形にこだわらず短文でも雑感程度のことはこれから書いていきたい。政治経済なんかも日頃から思うところがあるのでそういうのもいいかもしれない。ブログURL移行時の記事にも自分の思想や主張を出していきたい旨を書いているのだし。以前、ブログの記事で形式にこだわるとうまくいかない話をした。形式にこだわることで制約されることが多くなるからだ。今の僕のブログは読書記録だったり筋トレ記録だったりまとまりすぎている。なのでこれからはモチベーションが維持できる程度の形式を守って適当に思ったことを書いていこうと思う。


ということで折角だし何か書くが、東大に来て以来文化資本という存在が僕の中で膨張している話でもする。

慶應の文系という環境の中では頭の良さという点で周りと比較して少し優越感があり、特に文化というワードが気になることはなかった。しかし東大に来て学力や頭の良さという点で周りと差別化できない、むしろ自分が集団の平均以下になるという没個性的な環境に入ることで、「文化」ひいては「文化資本」ということにコンプレックスを感じざるを得なくなった。それは例えば、有名高校の人脈、豊かな家庭に育てられたことで血肉化された情報量、経験、語彙力、趣味など数えきれない。あえてざっくりした言い方をすれば人間力的な高さを感じる。僕や僕の周りの人たちが憧れる「教養」はまさに文化資本そのものだ。

またこの文化資本に関しては本人の学歴や性格や経済状況等よりも出自に大きく影響されていると思われる。成金から品性や知性などの気高さを感じないのはそこに結びついてくる。僕は経済格差なんかよりも文化資本の格差のほうが重要な問題であるように思えてならない。そして文化資本の格差は経済格差の陰に隠れて、世間の関心をひかないため一層重大なのだ。

書き出したら考えが逓増してあふれ出てくるので、改めてこのテーマをいつか取り上げたい。