「てつがくを着て、まちを歩こう」

3月7日読了。2013年23冊目。
ヤバいくらい最高に面白かった。「ちぐはぐな身体」もそうだったが鷲田氏のファッション論はすごく良い。ファッションの話ということで、3日連続原宿・下北沢エリアで服屋巡りをしたその移動中の電車の中で読んでた。

内容の質がとても高いうえに量も沢山詰め込まれているので読んでる最中色々な考えが湧きでてきた。頑張って書いたところでこの本の魅力の5割も伝わらないと思う。機会があれば僕のファッション観と合わせて改めて記事にしたい。


服というのは第二の皮膚であり、世界との「際=境界線」である。それ故服は自己の身体感覚と密接に連動しているのだ。服とは自分の内面の外部化であり、服を着たり脱ぐ行為は自分自身を着たり脱いだりする行為とニアリーイコールな関係にある。ただファッションは難しい。他人と「ズレ」てないといけない反面、他人と或る程度同じでなければならない。反抗的なファッションでも、カテゴライズを通して「ファッション」に呑み込まれてしまう。あくまで特定の範疇の中でズレを作る。これが個性になる。

またファッションは「僕たちが着る」だけに留まるような一方通行の関係にはない。つまり双方的。僕たちは服を着るが、一方で服により行動や仕草が規定される。自分自身が服を着るのではなく、服を着て自分自身になるのだ。

最近までファッションは記号的だった。世間がブランドを追うことに見られるように、みんな欲望するものを欲望していた。しかし今はそうした記号としての役割が薄れて、ファッションは漂流している。服「そのもの」を見ている傾向にある。

ファッションの個性を殺したスーツや制服とは何か?画一的でどれも同じだ。衣服が横並びになることで各人の個性は「顔」に凝集される。「顔」は花で「衣服」は花瓶の時代なのだ。

タイトルが秀逸である。とにかくセンスがよいしかっこいい。この本のタイトルの一部を僕のブログのタイトルに拝借したいと思ってるくらいだ。哲学は決して緻密な論理を解くことや自己と世界の関係性を考えることに留まらない。哲学はそこら中に転がっていて勿論ファッションやインテリアについても例外でないと僕は考える。哲学を着て哲学を歩き哲学を見つけたくなるような、気分的に明るくなれる本だった。