「ミシェル・フーコー」

ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)

ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)

11月2日読了。2012年91冊目。

哲学思想概観系統の本を去年あたりから数冊読んでいるが、どうやら僕の関心はリオタール・ソシュールデリダフッサールハイデガー・そしてフーコーあたりに向いているらしい。ウィトゲンシュタインは去年一番興味があったけど論理哲学論考が難解そうなので今は特に関心はない。最近はボードリヤールブルデューのような社会学にも興味が湧いてきている。ほとんどフランス人ェ…でもフランス語やってるとアンガージュマンなりパロールなり哲学思想関連で聞きなれた単語が多く勉強が捗る。

ということで監獄・狂気・性・権力といった僕の中二心をくすぐるテーマを扱うフーコーは特に面白そうで、生協書籍部でタイトルを見た瞬間購入した。フーコーは複雑で難解で専門家でもまとめるのは難しいらしく、本書も論旨が散らばっていて少し読みにくかった。後半の国家や近代を考える章は意味がよく分からなかったが、前半部で扱われていた刑罰の変遷は面白かった。


・処罰
近代以前の処罰は、君主権力への侵害というものに対する秩序の側の仮借なき対応であり、グロテスクな身体刑によって王への不可侵性と権力の正統性を示していた。このような君主体制下では些細な罪は興味を示されず、「少しの異常も見逃さず監視をし続ける」近代以降の権力とは対照的であった。しかし公開処刑に対する観衆の反応が危険なものになり、民衆の暴力的な騒擾が秩序を破壊する恐れが権力側の中で育ち始めた。

一八世紀末に要請されていたのは次の事柄だった。まず、処刑をめぐる暴力的な対決をやめさせ、囚人と公権力とが対峙する場の視覚化を避けること。それによって、民衆の権力への反感が処刑台の周りでの騒擾と無秩序に発展するのを阻むこと。そしてまた、相対的に増えつつあった盗みや詐欺、つまり商品から利益を得るブルジョアジーにとって死活問題であった、所有権を侵害する新しいタイプの犯罪に有効な対処法を示すこと。(P81-82)

新しい時代においての刑罰の体系は、より上手に効果的に裁き、犯罪を飼いならす方向へと向かっていった。

要するに処罰とは、罪を犯した本人より、むしろそれを眺め、また将来犯罪に走るかもしれない一般大衆に向けたものなのだ。(P95)

犯罪に対して刑罰が軽すぎるなら、人はチャンスがあれば何度も犯罪を企てるだろう。逆に重すぎれば「恣意的な権力行使」という旧体制に向けられたのと同じ批判を浴びせられる。また刑罰が犯罪の種類と無関係なら、なぜその刑罰でなければならないのか一般人には理解できない。そのため恣意的な刑だという非難が生じかねない反面、逆に刑罰が過小評価され犯罪抑止につながらない危険も生まれる。(P95)

処刑は見せしめでも祝祭でもなく、刑罰についての学校であり教科書であるべきなのだ。(P96)

刑罰は、いつでも人々がそれに対応する犯罪を脳裏に再現し表象する(思い浮かべる)ことができる記号でなければならない。(P98)

・規律
国家というものが規律を発令したのではなく、様々な機関や共同体が複雑に絡み合い、その相互作用の総体が、国家を形成した。規律という権力行使のスタイルは、体制側から大衆への直線的な構造からではなく、重層的な関係から形成されている。

『監獄の誕生』の叙述に従うなら、ポリスは規律が普及する契機の一つにすぎない。この時期以降、家庭、学校、矯正施設や監獄、病院、アトリエや工場など、人が集うさまざまな場所が規律の場となった。規律自体はそうした場のそれかと同一視することはできず、多様な場面で横断的に利用される「権力の型」である。近代国家は規律を通じて権力の網の目を張りめぐらせるが、それは国家と個人の直接的で排他的な結びつきを意味するわけではない。多くの相対的に独立した規律の場が複雑に組み合わさり、ときに相補い、ときには相反しながら並存している。(P145)

・監獄
監獄は、矯正と社会復帰という観点から見ると、はじまりの時点から現代に至るまで失敗であると認識されてきた。しかしそれにも拘わらず監獄は主要な刑罰として用いられて生きている。

犯罪者を犯罪者集団として囲い込むこと。彼らを裏社会に閉じ込め、犯罪者は違う人種だというイメージを流布させ、一般人と切り離すこと。許される犯罪と許されざる犯罪を区別し、罪と罰の体制を通じて犯罪者にその区別を叩き込むこと。要するに、犯罪者のエネルギーをできるかぎり矮小化しながら利用すること。これが「監獄の失敗」が容認され、放置された理由である。(P209)

読み返したらますます混乱してきた。