「音楽」
- 作者: 三島由紀夫
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1970/02/20
- メディア: 文庫
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10月21日読了。2012年87冊目。
解説は渋澤龍彦。この小説が発表されたのが婦人雑誌といこともあり、読者大衆を意識した作品だったらしい。確かに「金閣寺」や「午後の曳航」や「花ざかりの森」に見られるような荘厳で難解な表現は少なかった。テーマも精神分析と比較的はっきりしたもので読みやすかった。しかしストーリ性重視だったので僕が好きな部類の作品ではなかった。
☆
麗子は、幼少期に兄から受けた近親相姦のために、兄への倒錯的な愛が募る一方で、他の男性に対して不感症になってしまった。精神科医の汐見和順は、精神分析学的な正攻法と個人的な偏見や憶測による手法でその根本原因も探るも難航を極める。しかし麗子の兄を訪問したことで、麗子の他の男性への不感症は、兄の子どもを産むための、いわば兄と自分の純潔を守っていること―しかしそれは神聖さを伴っているが一方で無意識の底にある復讐の観念に根ざしている―に由来していることが判明し、また兄が既に他の女性とのあいだに子どもを授かっていたことで、麗子は兄に対する一方的な義務感から解放され、事態は解決として終息した。
☆
そんなんで解決?って思ってしまった。
僕はフロイトの精神分析、さらに言えば精神分析という学問全般があまり信頼できないのだが、それは頭でっかちで机上の空論にしか聞こえないからだった。本作品ではハイデガーやヤスパースの思想を土台にした、より人間の現実に則した現存在分析なるものがあるらしいことを知ったので少し興味をもった。
最後に花井という不感症の男が言った言葉。
アメリカで精神分析がはやっている理由がよくわかりますね。それはつまり、多様で豊富な人間性を限局して、迷える羊を一匹一匹連れ戻して、劃一主義の檻の中へ入れてやるための、俗人の欲求におもねった流行なんですね。(P147-148)