「内なる辺境」

内なる辺境 (中公文庫)

内なる辺境 (中公文庫)

10月15日読了。2012年82冊目。

安部公房のエッセイ集。「ミリタリィ・ルック」「異端へのパスポート」「内なる辺境」の3編だが、異端と正統についてテーマが一貫している。安部公房作品の特徴である無名性ひいては非場所性は彼自身の都市観と深く結び付いていることが分かった。

安部公房は小説嫌いの僕を一気に文学の世界に引き込んだ僕にとって貴重な人物の一人なのでエッセイで彼の考えに触れられてテンションが上がった。余談だが、安部は僕の好きな文豪・三島由紀夫とも仲がよく、クーデターの際に安部を三島の地下室に隠す約束もしてたらしい。作風が完全に異なる二者に関する妙にほっこりする話を一つ。


あらゆる国の反ユダヤ主義者というのは「正統な国民」を農民的なイメージに見出し、都市的なイメージに悪を見た。ユダヤ人は都市の象徴であるが故に忌み嫌われたのである。

反ユダヤ主義なるものの根拠が、ユダヤ人の存在そのものよりも、むしろ「本物の国民」という正統概念の要請の内部にひそむ、一種の自家中毒症状だと考えて、まず間違いはなさそうだ。ユダヤ人の存在が、反ユダヤ主義を生んだのではなく、正統概念の輪郭をより明瞭に浮かび上がらせるための、意識的な人工照明として、ユダヤという異端概念が持ち出されてきたらしい。ユダヤ人は存在していたのではなく、存在させられたのである。この原因と結果の倒錯の責任が、異端の異端性にではなく、もっぱら正統の正統性に帰せられるべきものであることは、いまさら疑う余地のないことだろう。(P77)

反ユダヤ主義者の反ユダヤ主義の正統性は農村至上主義に求めており、それは都市化工業化の進む世界の時勢と矛盾しているように思えるが、実はそのような心理は農村=定着化への固執に根ざしており、それ故都市的=放浪は憎むべき対象となった。

国家にとって、「正統」が―体制のいかんを問わず―中農的な色彩で描き出されているという事実は、考えてみればひどく奇妙なことだ。もっぱら重工業に、その経済の基盤を置いているはずの、先進工業国においてすら、本物の国民像が、いぜんとして善良なる農夫でなければならないというのは、一体どういうことなのか。(P95-96)

都市に固有の性格として、空間密度の圧縮ということがあげられるだろう。この集中化は、相対的に、人間の移動効率を高め、人間関係も多角化する一方、無名性も強められる。農村生活の定着性にくらべると、都市生活のパターンは、驚くほど移動民族的な傾向をおびて来るのである。おそらく国家は、その都市生活の移動性が気に入らないのに違いない。ながい辺境との闘いを通じて、やっと農耕を恒常化させることが出来た、定着国家の末裔にとって、移動効率をバロメーターにしている都市を規範にするなど、思っただけでもおぞましいことなのだろう。…略…むろん現実に農耕社会に戻ろうというわけではない。都市の機能はそのまま維持しつつ、その上に、幻想の「正統派」共同体を建設しようとしたわけだ。(P96-97)

しかしそのような都市機能を維持した上に重ねる幻想は幻想にすぎず、市民がそうした「正統性」を信仰することにも限界がくる。正統信仰に限界がきた時、都市の内なる辺境が瓦解するだろう。

かつて、外からの移動民族の襲来が、農耕国家の空間的固有性を破壊して、国境を超えた同時代感覚を持ち込み、定着にともなう停滞に新しい跳躍の機会を与えてくれたように、今度は都市という内部の辺境から、国境を破壊する軍勢が現れようとしているのかもしれない。農村的な特殊性に「正統」を認める、国家の思想にかわって、都市的な同時代性に「正統」を認める、辺境派の軍勢が……(P98)

100ページくらいの薄い本だが、内容はかなり濃密で要約と僕の感想が書ききれないのが残念。今後いろいろ書き足すと思う。ドナルド・キーンの解説と僕の見解に関しての記事も日を改めて作りたい。