「デミアン」

デミアン (新潮文庫)

デミアン (新潮文庫)

9月13日読了。夏休み27冊目。

車輪の下」よりこちらの方が感銘を受けたし、赤ペンでつけた傍線も多かった。ただ終盤の展開が早すぎて、終わりに近づくにつれてよく分からない感じになってしまった感が否めない。また翻訳もすごく綺麗に訳されて名文が多くある一方で、よく理解できない訳もあったりで、翻訳の限界性を感じた。内容自体は今まで読んできたものの中でも5本指に入るほど好きなので、岩波版やドイツ語で読んで比較してみたいと思う。この本も面白かったのに、海外文学最高峰みたいな風潮がある「カラマーゾフの兄弟」はどれだけ凄いんだという。

本書は観念的・夢想的で外的な事件というものはほぼ0に近いのだが、内面の連鎖や展開はスピーディだった。

家族という明るい場所と悪ガキ集団という暗い場所という二つの世界に済んでいたシンクレールはデミアンと出会う。孤高と老成の雰囲気を纏うデミアンに憔悴し、既存のキリスト教的な価値観から脱して自分自身へ至る道を詮索するようになる。懐かしい幼年時代や故郷に固執する場面もたびたび垣間見える。

ガキ大将フランツ・クローマーに隷従し懊悩した苦悶から逃避するために、明るく幸福に満ちた楽園に逃げ込もうとする心情と葛藤する。デミアンの助けによってクローマーへの従属は逃れることはできたものの、一人立ちのできないシンクレールは新しい従属を求める。しかしその時には、家族という明るい世界以外にも選択肢があることが分かっていた。

旧約と新約の、この神全体は、なるほどりっぱなものではあるけれど、それが本来あらわすべきところのものではないということが、問題なのだ。その神はよいもの、気高いもの、父らしきもの、美しいものであり、高いもの、多感なものでもある。―まったくそれで結構だ。しかし世界というものはほかのものからも成り立っている。そして、それはすべてむぞうさに悪魔のものに帰せられている。世界のこの部分全体、この半分全体が、ごまかされ、黙殺されている。彼らは神をいっさいの生命の父とたたえながら、生命の基である性生活というものをすべてどんなにむぞうさに黙殺し、あるいは悪魔のしわざだとか、罪深いことだとか、説明していることだろう!…略…神の礼拝とならんで悪魔の礼拝も行なわねばならない。それが正しいと思うんだ。あるいはまた、悪魔をも包含している神を創造しなければならないだろう。それに対して人は目を閉じてはならない。(P93-94)

「神的なものと悪魔的なものを結合する」…略…デミアンは、われわれはあがめる神を持ってはいるが、その神は、かつて引き離された世界の半分(すなわち公認の「明るい」世界)にすぎない、人は世界全をあがめることができなければならない、すなわち、悪魔をも兼ねる神を持つか、神の礼拝と並んで悪魔の礼拝をおはじめるかしなければならない、と言った。―さてアプラクサスは、神でもあくまでもある神だった。(P139)

自己に決意と自信を欠いて集団を形成している大衆のように過去に自由と幸福を求め自己を見出すのではなく、世間から要求されたり、定型の型であったり、そういうものは全て滅却して、自分の運命を生きる決意をシンクレールはする。

世界になんらかあるものを与えようと欲するのは完全に誤りだった。目ざめた人間にとっては、自分自身をさがし、自己の腹を固め、どこに達しようと意に介せず、自己の道をさぐって進む、という一事以外にぜんぜんなんらの義務も存しなかった。(P190)

各人にとってもほんとの天職は、自分自身に達するというただ一事あるのみだった。詩人として、あるいは気ちがいとして終ろうと、予言者として、あるいは犯罪者として終ろうと―それは肝要事ではなかった。実際それは結局どうでもいいことだった。肝要なのは、任意な運命ではなくて、自己の運命を見いだし、それを完全にくじけずに生きぬくことだった。ほかのことはすべて中途半端であり、逃げる試みであり、大衆の理想への退却であり、順応であり、自己の内心に対する不安であった。(P191)