「本当はちがうんだ日記」

本当はちがうんだ日記 (集英社文庫)

本当はちがうんだ日記 (集英社文庫)

8月29日読了。夏休み14冊目。

全体的な印象として「穂村氏」ではなく「穂村さん」と言いたくなるような人でだった。穂村さんは不器用だけどそれなりに現実世界でやっていけているという人間である。エッセイの内容自体もそういった人達が共感を覚えるようなものだったと思う。僕のような社交偏差値40以下で、夏休みの8割は自室に引きこもり、吃音で滑舌が悪く、自伝を出版したら引かれる程度に筋金入りの社会不適合者にとっては、その不器用さにやや物足りなさを感じることもあった。そして穂村さんのずるいところは、繊細で不器用な性格であることを主張することで嫌われない予防線を張って愛されるキャラ性を出している(意図してるしていないに関わらず)一方で日常生活は割と充実しているところにあり、この点で自虐風自慢を感じた被害者は一定数存在すると思われる(このエッセイで自虐風自慢を感じている者の病症は相当深刻であると思われる)。

但し上に述べた不満は取るに足らないことで、概して書いてあることは面白かった。さすが歌人というところで、語りかける文章なのに、一単語一単語が単語以上の意味を持っているように感じた。

穂村さんは先に述べたように繊細で不器用で神経質な人間であり世の中に生きづらさを感じているようだ。この生きづらい世の中で安住を促す「大きな穴」に吸い込まれないよう必死である。といっても穂村さんはニヒリストではない。日常の中に好奇心(?)の眼を光らせて、意識無意識に関わらず、絶えず「彼にとっての善きもの」を探索している印象を受けた。穂村さんは「おもしろきこともなき世をおもしろく」的な人間である。

自分が着るとカッコ悪くなるシャツのことも、読書家ランキングが下がっていくことも、同級生からあだ名がつけらないことも、10年通うトレーニングジムで友達が一人も出来ないことも、買っても読まない本が大量にあることも、エスプレッソが苦いことも、不思議だが、魅かれてしまう。

締切の原稿を抱え、睡眠不足で、お風呂にも入れず、明日もあさっても会社だからこそ、ネットの世界にずぶずぶと沈んでしまうのである。(P38)

台風の夜、赤ちゃんを抱いた女のひとを先にタクシーに乗せて、杖をつきながら私の後ろに回ろうとしたおじいさんなんて素晴らしくもなんともない、そう思えたら、どんなに楽になれるだろう。(P93)

何かに感動するひとは鈍感なんじゃないか、と今の私は思う。(P126)

…(略)…などというタイトルたちを眺めて、うっとりする。勿論、どれも読んだことはない。(P157)


定期的に読みたくなる文体と雰囲気で書かれたエッセイ。次は「世界音痴」でも読んでみようと思う。