「罪と罰」下巻

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

8月20日読了。(上巻は8月15日読了)
始めから終わりに至るまでの物語の筋がとても太かった。

P573から、微生物が人体に取りつくことで、自分だけが聡明で自分だけが他人の知らない真理を知っているとかたく信じるようになる疫病がヨーロッパからアジアに広がるという夢をラスコーリニコフが見る描写が出てくる。疫病に罹った者は狂人になり、真理を知り得ない他人を否定するようになる。各々は互いに理解できず、他人に苦しみ、何が善で何が悪で、何を罪とし罪としないか、分からなくなる。彼らはやがて自滅していく。疫病にかからなかった数人が地上を浄化するための使命を負うことになるが、彼らを見る者はだれもいなかった、というものである。ナポレオンのように、他の人より許されることが多い人が、この世にたくさんいてはならない。

結局彼にとっての罰とは犯行を罰する現行法ではない。権力が設定する人道の基準や法ではなく自分の卑劣さだ。「罪と罰」とは殺人という罪とシベリアでの罰、凡人が非凡人の真似をする罪と自己の卑劣さを嘆く罰、という二層構造で作られているのではないか。

一つの愚劣の代りに、ぼくは数百、いや数百万の善行をするはずだったんだ。いや、愚劣とさえ言えないよ。ただの手ちがいさ。…略…この愚劣な行為によって、ぼくはただ自分を独立の立場におきたかった、そして第一歩を踏み出し、手段を獲得する、そうすれば比べようもないほどの、はかり知れぬ利益によって、すべてが償われるはずだ……ところがぼくは、第一歩にも堪えられなかった、なぜなら、ぼくは―卑怯者だからだ!(P522)

彼が恥じたのは、つまり、彼、ラスコーリニコフが、ある一つの愚かな運命の判決によって、愚かにも、耳も目もふさぎ、無意味に身を亡ぼしてしまい、そしていくらかでも安らぎを得ようと思えば、この判決の《無意味なばからしさ》のまえにおとなしく屈服しなければならぬ、ということであった。(P565-566)

発狂した末に母を失い、今まで独善的な思想を持っていた青年がソーニャとの愛で新たな世界へ歩むことで一筋の光を見つけるという一応ハッピーな感じを僕は見出したが、僕個人としては残念な終わり方だった。

一つの世界から他の世界へしだいに移って行き、これまでまったく知らなかった新しい現実を知るものがたりである。(P580-581)

なんというか、美青年で教養があり家族や友人の愛に恵まれるハイスペックなのに色々勿体ない。