「現代アート、超入門!」

現代アート、超入門! (集英社新書 484F)

現代アート、超入門! (集英社新書 484F)

アートに全く心が動かされない僕が、何かしらアートに良さを見つけたいと思った。

現代アート概観

アートにおける評価の基準は時代性に接している。そのような観点に立つと現代アートとは「二十世紀以降に生まれた、技術と都市に関係の深いアート」とざっくり理解できる。現代アートの特徴として、ルネサンス期以降の現実を忠実にテクニカルに再現するという価値基準を相対化して、非常に多様化していることが挙げられる。

現代アート的な源流はフォーヴィスムマティスキュビスムピカソに遡ることができる。マティスは人間の内面を表現するものとして色彩を重視し、色彩が作り出す自律的な世界を探求した。ピカソは複数の視点から世界を捉えることで新しい現実世界を提示した。「よく分からない」作品は「革命性」や「伝統からの脱却」という点で評価されるようになった。

デュシャンに「泉」という便器を置いただけの作品がある。これがアートになるかどうかについての議論は二分する。しかしこういった考え方を問う作品は「コンセプチュアルアート」というカテゴリーに分類できる。現代アートではこのように考え方そのものがアートになりうるのだ。

ロスコの「無題」と題される絵は、何が書いてあるか分からない上に題名も無題なので理解の手がかりが少ない。具体的なタイトルを与えないことは我々の解釈の幅や想像力を喚起する。鑑賞は専ら見る側に託される。

アートとアート以外の境界線の問題を揺るがした作品としてウォーホルの「ブリロボックス」が挙げられる。この作品は、市販のブリロという商品の段ボールを木の板にしただけという点以外はほぼ外見を同じにしたというものである。アートはこういうものだ、という定義を諦めなければならないほど、アートがとりとめのないものになってしまったのだ。

以上のようにアートは多様化することで、アートの中心は消失した。

影響関係も双方向である。かつてのように、“先端”から“末端”へと一方通行的に影響が波及するというものではなくなり、あちらからこちらへ影響が及ぶと同時に、こちらからあちらへも刺激が伝わるようになっている。(P185)

現代アートの鑑賞

冒頭に述べたようにアートは世相と密接に関連している。現代のように技術が急速に発達し個々が自分の世界に閉じこもることで、アートのメッセージ性も弱くなった。

ひたすら自分の感覚世界を表現しているのであって。「意味」のない作品が目立って多くなった。アートは無言化した。(P198)

しかしこれは一方で好機と見なせる。

私たちは自らの感性と好みで、超多様なアートのあれこれを何ら制約も受けずに愉しめばよいのではないだろうか。小難しい理屈や難解な専門用語はさておいても気軽にアートと向き合える好機が到来しているような気がするのである。(P199)

まぁ本だけ読んでも美術館に行って実際の作品を見ない限り、あまり意味ないな。