「街場の現代思想」

街場の現代思想 (文春文庫)

街場の現代思想 (文春文庫)

僕は内田樹の文章が好きなので「街場」シリーズは積極的に購入していきたい。街場のメディア論は3月に読んだ。


文化資本
日本を階層で分けるならば、年収による境界線ではなく文化資本の境界線で引く方がより明瞭に捉えることをできる。文化資本とは幼少時から「努力」せず「勝手に身についた」ものであり、芸術等の文化に余裕の態度でいられることである。一方で文化資本を得ようと「努力」している者は、その時点で文化資本を得る限界性を露呈している。

文化資本はより狭隘な社会集団に排他的に蓄積される性質を持っている。(P32)

そして中途半端な「成り上がり文化貴族」は差別主義者になり、文化資本を持たないなかで自らの地位の優越感に浸ることになる。

文化資本をそこそこ持ったもの」と「文化資本をそれほど持たなかったもの」の「越えがたい境界線」を引きたがるようになる。(P42)

・負け犬
「30代、未婚、子ナシ」は負け犬女と揶揄されることが、実は彼女らこそが文化を形成するポテンシャルを持ち合わせている。そもそも勝ち負けの二分法で物事を考えること自体…勝ち負けで考えるなら勝っても負けても勝ち犬・負け犬である。

・お金
われわれ人間は「欲望の二重の一致」の世界にとどまらないために「お金」をコミュニケーションツールとして編み出した。

お金が存在したせいで、交換が始まり、商品が作られ、そして、その結果、わたしたちは労働を介して自分が何者であるかを知ることができるようになった。(P95)

私たちとお金(貨幣)の関係性はループする。そのループの最後で、人間は交換する主体として存在するようになる。その意味において「人間」は貨幣以後に作られたと言える。

・大学
万人の需要を対象にする資本主義マーケットと異なり、大学のマーケットは20歳前後の無職者を対象にしている。このため大学経営を考えるときに、資本主義的な経営モデルをあてはめるのは適切ではない。

資本主義のマーケットは、「原則として無限」というのが前提であり、大学マーケットは「原則として有限」というのが前提である。(P191-192)

受験生の評価を対象にした「入口のマーケット」と、企業や社会の評価を対象にした「出口のマーケット」のどちらを優先すると効率的に利益を得られるか、という問題を考える。このとき受験生と学生を確保することで大学が生き残るロジックを考えると、前者の方に軍配があがる。

いささか乱暴に言ってしまうと、受験生が大学に抱いている「夢」という「虚」と、社会が大学に要請しているスキルや知識という「実」を比較したときに、「虚」に有り金を賭ける方が「実」を優先させることより、大学が生き延びる確率は高い、ということである。(P195)

・生きているという幸福感
人は「死ぬこと」を思い描くことで、生きていることに幸福を見いだせる。人間は必ずしも今この瞬間の連続を生きているのではなく、「未来の自分」という視座をも基点にして今を生きている。生きる気力や覇気が無い、ということは、「死ぬこと」の思い描きが欠如していることに由来しているかもしれない。自分の運命の支配、つまり全能感を放棄して「自分の死」を覚悟することで、今生きているというリアリティが生み出せる。

文化資本論は、3月に読んだ「大衆教育社会のゆくえ」に出ていた文化の共有の話に似ている。