「君の名は。」/「この世界の片隅に」

今年の2月に映画鑑賞に目覚めてアマゾンビデオやU-NEXTで色々な作品を漁っていたが、最新作品にも目を向けていこうと思い3月2日に映画館に出向き、以下の2本を鑑賞した。


君の名は。
 この手のアニメは敬遠していたが食わず嫌いは良くないと思い、遅ればせながら鑑賞した。中盤までの展開は上手く出来ていてなかなか面白く終盤に期待できたが、終盤からラストにかけては幅広い客層に迎合している感じが読み取れて安っぽく感じ、最終的に期待より大きく下回って終わった。特に瀧が三葉の手のひらに「すきだ」と書いたこと、二人が5年後にすれ違って今後関係を築き上げていくであろうことに関しては興ざめした。
 作品内では時間が目まぐるしく変化するのでエンドロールが流れているときに頭の中を整理した。観終わった時点で残った疑問が三つ。1.三葉が浴衣姿で彗星の落ちる現場にいた場面は何だったのかということ、2.なぜ住民の大半は助かったのかということ、3.犠牲者リストに高校生3人の名前があったのになぜその3人が5年後に東京で生活していたのかということ、である。鑑賞後は2時間後に「この世界の片隅に」が控えていたので近くのカフェに入り、ネット上に転がっている解説をいくつか読んだ。2に関しては三葉の祖母が役所にいたので、その祖母が入れ替わり経験者として父親を説得し、再び町内放送を流して住民を校庭に集めた、3 に関しては糸守の住人が避難に成功した世界だけが分岐しこの3人も助かる未来だけが時間軸の中で実現された、1に関しては3と似ているのだが、三葉が浴衣姿で彗星の落ちる現場にいたという場面は分岐の中で捨てられた、ということで自分なりに回答をつけた。


この世界の片隅に
 何も感じなかったし何も残らなかった。この作品への高評価がかなり多いことに驚いている。それっぽいキャラ、それっぽいBGMなどで、何かを考えされるっぽい雰囲気を醸し出しているのだが、全体としてあまりにもぼんやりとしている。逆に言えば、どうとでも捉えることができるということを意味するのだが。「風立ちぬ」には主人公の飛行機への憧れと戦争が対峙していたし、「火垂るの墓」には節子があらゆることに我慢を強いられながら衰弱していくことと清太がゴミのような扱いをされて最期を迎えることに哀しさがあった。
 ここまでつまらなく感じた要因を帰りの電車の中で分析した。1.大義や強い思いとは無縁な主婦視点で描かれている、2.何気ないほのぼのとした日常に対置されるような形で戦時下における残酷さや緊迫さが描かれているとは感じられない、3.画風が現代的で且つあざとい、4.全体的にまろやかで軍人に全く覇気・殺気がない、というのが挙げられる。
 戦争をテーマにするならばどこかで、軍人たちが雄々しく、民間人が酷く、戦闘が華やかに描かれなければならないと映画素人ながらに思っている。阿部公房のエッセイの中で、涙は連帯を形成しやすい、との趣旨の文を読んだ記憶があるが、戦争をテーマにすると涙=感動=連帯を呼び起こしやすい。それはまた同時に安易な反戦や死生観を呼び起こしやすい。よって俺がこの手の作品(小説、映画など)を鑑賞する時はなるべく穿った見方をするようにしている。