努力と継続に関しての雑感

最近の生活が酷い。完全に努力を回避する人間に堕している。勿論この22年間で胸を張って頑張ったと言える期間があったとは言えないが、それなりに継続することはできた。しかし東大に入学して以来、全く物事を継続させることができなくなったのである。その結果何をやらせても中途半端でこの1年半何をやってきたか自分でも全く分からない。

そんな自己嫌悪を抱く中、先日、ネット上で見たプロフェッショナル仕事の流儀の動画の中で羽生3冠が述べていた言葉を聞いてハッとなった。

情熱を持って続けて行くことって当たり前のことだと思っていたんですけど、これが果てしなく難しいことなんですよね。…略…例えばなんでもいいですけど、どんなものでも1日1時間、なんでもいいですからそれを20年やってくださいって言われたらそれはもう大抵の人はできないはずなんですよ。…略…20年とか30年とか40年とか年月を見た時に当たり前のことが実はこれは全然当たり前のことじゃなんだなということをすごく感じるようになったということなんです。…略…同じペースで走り続けることのできる人の方が一番の或る意味才能なのかなってことは結構思っていて、むしろ瞬間的なひらめきとかきらめきとかいうのは勿論大事な要素ではあるんですけど、それほど中核をなしていることではないんじゃないかなとちょうど30代くらいのときに感じるようになりましたね。(プロフェッショナル 仕事の流儀 羽生善治)

例えば、大学の定期試験などは継続した努力など放棄しても直前の瞬間風速的な努力だけでどうにかなるものであり、僕もそういう類の努力は得意である。しかし継続した努力となると全くできない体質になってしまった。何かに取り組む時、情熱や情熱を喚起する何かを必要とする体質になってしまった。しかし、その時だけのテンションで自分を鼓舞して情熱を持つことは誰でもできるし、短期間だけ頑張ることは大して難しい話ではない。

ここで羽生三冠の言葉にヒントを得た。その場の勢いと情熱によって自分を鼓舞するのではなく、むしろ情熱を棄てて、何でもない乾いた日常の中で継続していくことが最も重要である、という着想まで辿り着くことができた。上の引用にもある通り、「淡々」とこなしていくことの果てしなく難しいことは、タイトル保持歴代1位・棋界のトップを20年間走り続けてる羽生三冠も同じなのだ。

「勉強の内容自体は難しくないが、机の前に座って勉強するまでが難しい」というのは僕の勉強に対する中核的な考えである。しかしこれは勉強だけでなく、全てにあてはめられるのではないかと感じた。つまり「○○自体は難しくないが、○○するまでが難しい」と一般化できるのではないか、ということだ。

継続することが才能であることはよく言われることであり、僕はこの言葉に対して今までずっと懐疑的であったが、少しは自分なりに解釈できたつもりである。

経済学部が内定して、今が新たに気持ちを切り替える好機だと思うので真面目になりたい。