「宗教学の名著30」

宗教学の名著30 (ちくま新書)

宗教学の名著30 (ちくま新書)

宗教学の授業のレポートを書くために読んだ。教授が著者・島薗氏の同僚らしい。各章の最後の文に批判や疑問を投げかけている点は面白い。


・シュライエルマッハー「宗教論」
宗教の本質は「直観」であり「感情」である。シュライエルマッハーは外面的な宗教理解を嫌う。宗教が破壊や暴力と結び付くのは、宗教それ自体ではなく、命令としての倫理や体系ことに由来する。宗教とは、個人の語りえない体験による。また一方で、宗教は社会的でなければならない。それは堕落した宗派心を引き起こす可能性があるが、「まことの教会」の存在によってそうした外壁は取り払われる。

ニーチェ道徳の系譜
ニーチェの「奴隷道徳」とそこから発生するニヒリズムに基づいたキリスト教批判を展開する。このニヒリズムは「生の否定」である。一方、仏教では、苦しみを避けて平静を説くが、これも「生の否定」という点でキリスト教と変わりない。ニーチェの宗教批判論は生への能動的な関わりの放棄を根拠としている。

・ジェイムズ「宗教的経験の諸相」
宗教体験を形而上学的に弁証することに対して、宗教体験から実存的な思考次元に問いかける動きがある。

形而上学は手応えのない理念から現実に降りてくるし、合理主義はひからびた合理的意識しか認めない。宗教体験が露わにするように、人間の意識はもっと多様だ。(P131)

・ブーバー「我と汝」
ノローグ的自己:閉ざされた自己
ダイアローグ的自己:他者との関係の中の自己
ブーバーは<われ-それ>関係のモノローグ的自己を超えて、<われ-なんじ>関係という対話原理の中に生き生きとした生活を見出した。より深い実存は絶対化された個や自己にあるのではなく、関係の中にある。

ホイジンガホモ・ルーデンス
仕事や義務などの日常から解放され遊びに向かうとき人々は自由や創造性を発揮する。このような「遊」は「聖」に重なりあうところがある。遊びとしての宗教観。

バタイユ「呪われた部分」
供犠という非生産的な行動が聖なるものを現出させる。

消尽や侵犯の体験は、破壊や暴力や恐怖の体験でもあり、罪意識や苦悶がつきまとい、死にも通じる。死は他の生に場所を空けることであり消尽の一形態と言える。(P252)

・湯浅泰雄「身体論」

西洋の宗教、つまりキリスト教では修行はあまり高い意義を与えられていない。魂と身体ははっきり二元的に分けられる。(P264)

近代に入り「神は死んだ」と言われることで二元論としての形而上学は現実味を失った。そこで東洋宗教に目を向けることができる。

西洋形而上学の解体が主張され、あるいは嘆かれる現代においてこそ、東洋宗教の心身論が見直されるべきだ。修行や身体の考察によって形而上学の再建の道が展望できる。(P264)

シュライエルマッハーの「まことの教会」の空疎な感じが否定できない。

僕は宗教の難問は宗派心だと思う。