「そうだったのか現代思想」

482ページとボリュームのある本で読み終えるまでに時間がかかった。


ニーチェ
価値が剥奪された生に対して、理想を考える弱いニヒリズムではなく、無条件に受け入れる能動的ニヒリズムを積極的に取り入れることで、生を肯定できて、自分が強く大きくなる。この「力への意志」が生の中心をなす。ニーチェは心理を語りだすという本来の哲学の基準を、誰が語っているかという基準に変えた。

フロイト
人間が何かを言ったり行動したりするのは、無意識による。エディプス・コンプレックスという人間の誕生を表す概念を、家族制度まで拡張。

ソシュール
言葉は一つ一つではなく、その全体との関係からはじめて意味をもつ。こうした物事を関係から捉えようとする差異の体系の発想は、後に文化を記号的に捉える発想に広がる。人間は確かに言葉という制度から逃れることはできないが、言葉を逸脱したり破壊したりできる(例えば詩など)。ここに言葉からの自由を求めることができる。

ハイデガー
自分の固有性を見失っている世人(Das Mann)が自分の本来性に気づくためには、他人と交換不可能な死を経験することである。

サルトルレヴィ=ストロース
サルトルは人間の行動の論理に状況の中に投げ入れる「アンガージュマン」という概念を使って「選ぶ」という基準を与えた。しかしこのサルトルの自由の捉え方に構造主義者から批判が出た。レヴィ=ストロース構造主義的な発想は、ソシュールの差異の体系という概念に大きく影響された。レヴィ=ストロースは、未開人でも細かい自然観察と世界を秩序づけようとする意志と論理をもっていると主張し、ヨーロッパ中心主義に対する批判を加えた。

デリダ
建築or破壊ではなく、我々が自由でありうるためにずらしはぐらかす、という脱構築の考えを導入。

ドゥルーズ=ガタリ
「アンチ・オイディプス」では、人間の欲望や無意識を鋳型にはめるフロイトを批判。生命は欲望する諸機械である。ドゥルーズ=ガタリは人間を分子状無意識や分裂症的に、枠にはまりまとまらないもっと自由な欲望のありかたに着目した。

・バルトとボードリヤール
様々な文化は記号的に捉えられる。新しいイメージが作られ自由が達成されたように見えても、同じ仕方で語られることで結局同じように消費される。消費社会では自由は達成されない。

フーコー
人々の思考は知の体系(エピステーメー)によって決定されている。
「言葉と物」:言葉と物は近代に分離した。物の意味とは、人間にとってどいういう意味をもつか、歴史にとってどういう意味をもつがで決定される。
「狂気の歴史」:近代以降、狂者は監禁・排除されることで、理性をもつ主体=従順な臣民が形成された。

ソシュールと聞くと言語学を想定しがちだったが、差異の発想が後の思想史の中でここまで影響を与えているとは思わなった。バルト・ボードリヤールはほぼ記号とか差異の話だったし。フロイトとの関連が深そうなドゥルーズ=ガタリの思想が曖昧でよく見えなかった。フーコーは2年前に読んだ「寝ながら学べる構造主義」が頭に残っていたので理解はすすんだ。